1996年10月2日水曜日

日本経済の現状と今後の総合商社の役割について


1996.10.2

I.歴史の転換点に立つ日本経済
○日本経済は歴史的な転換点に立っている。これは産業革命や、第一次世界大戦後の日本経済の混乱に匹敵するような節目である。この変化は1990年代に入ってから始まったものだが、いまはほんの序の口であり、この混乱は今後まだまだ続く。21世紀にかけては変化の時代となる。

○さらに、現代は変化のスピードが加速されている。古代は1000年ごとに時代の節目がめぐってきたとすると、中世ではそれが500年単位となり、近世では100年ごととなった。戦後の日本経済では、20年単位で節目といえるような大きな変化が発生している。時代の目盛りが「普通目盛り」から「対数目盛」に変わったかのようだ。

○今まで危機や不況は何度もあった。そのたびに日本経済は工夫してそれを乗り越えて新しく発展してきた。今回もこれまでのように辛抱して頑張れば、やがて明かりが見えてくることに期待できればよいのだが、どうもそういうことはないようだ。いま起こっていることは循環的な変化ではなく構造的なものだ。従来のような循環的な状況の好転は期待できない。構造的な変化、調整には、つねに痛みや摩擦がともなう。この痛み、摩擦は来世紀にかけて長く続くことになる。

○しかし一方で、変化はチャンスである。変化にともなうビジネスチャンスも今後長期間にわたり存在することを忘れてはならない。プラス面とマイナス面、攻める面と守る面の二つの「正面」で、われわれは変化に備える陣を布かねばならない。

II.構造変化の方向性

○大変な時代ではあるが、先行きの方向性が不透明で見えないということはない。むしろ今後の日本経済が進む方向ついての一致した見方(コンセンサス)が定着してきている。すなわち、1)世界経済のグローバル化、ボーダレス化にともない、世界は地球的規模の大競争の時代に突入すること、2)この大競争の時代には、国境を越えた産業の再編成が否応なしに進むこと、3)従来、有形・無形の手段(規制や取引慣行)で自由競争の荒波から保護されていた効率性の低い産業は、規制緩和による市場の自由化、透明化を通じて鍛えられ、淘汰されること、4)経済の新たな発展のためには創造性に富んだ新しい産業が輩出してくる必要があるが、そのためには規制緩和を通じて自由で透明な競争社会の構築が望まれているということ、などである。これについてはコンセンサスが形成されているのではないか。

III.構造調整の諸問題(強者と弱者の二極分化、不平等、摩擦)

○でもこのような変化の時代、転換点においては、社会的、産業的な調整の痛みが発生する。なかでもこの大競争の時代においては、競争への参加者の数が段違いに増えるために、強者にとってはこの上のないチャンスであるが、弱者にとっては非常に惨めなものとなる。先進国の弱小産業や特別な特殊技能を持たない労働者は、発展途上国の競合産業、労賃の安い労働者とスクラッチで勝負しなければならない。中国の旋盤工とインドのプログラマーと同じ土俵で勝負しなければならないのである。社会は、競争に勝ち残る強者と競争に敗れる弱者に二極分化が進むということが予測される。

○現に、いち早く80年代はじめから規制緩和を進めたアメリカにおいて、富裕層においては所得が増加し、貧困層の所得が低下するという二極分化現象が進み、社会問題となっている。欧州においても経済のグローバル化が先進諸国での高い失業率をもたらしたと議論されている。

○そのなかで勝ち残るためには、企業も、国民も、それぞれのレベルで、変化への適応力と競争力の強化が期待される時代になった。天は自ら救うものを救うという自己責任の時代になってきた。はっきりいって嫌な時代である。

○このような社会の構成員どうしの苛烈な競争は、ムラ的な平等社会に慣れ親しんできた日本人にとってなじみのないものである。日本産業の強さの秘密であった「社会的一体感」を壊してしまうかも知れない。当然、いろいろなところで抵抗が発生するので改革は一直線には進まないだろう。三歩前進、二歩後退といったかたちでぎくしゃくしながら、同時に時間をかけながら、進んで行くのだろう。よって「変化の時代」は当分続くのである。

○しかしメガトレンドとしては、日本型システムの良さを残すべく努力は払われるにせよ、やはり日本社会はこのような方向に(普遍的な方向に)進むだろう。アメリカ型と日本型システムは、どちらかといえば現在のアメリカ型に近い位置に収斂することになるのではないか。この方向性には、ほとんど間違いはないだろう。よって当分、日本経済は苦しい調整の時期を経験することになろう。

IV.その中で日本企業はどう動くか(企業経済と国民経済の「ずれ」)

○しかし日本「企業」を考えると必ずしも悲観的に考える必要はない。いまの時代は、一国の経済の盛衰と、その国の企業の盛衰とが、必ずしも100%合致しなくなっているのである。昔は企業は国旗を背負っていたことが多かった。「GMにとってよいことはアメリカにとってよいことだ」といったGM社長が居たり、日本でも商社マンは「お国のために外貨を稼ぐのだ」といって仕事に邁進した。徐々にそういうことはなくなりつつある。もちろん、まだまだ日本経済全体の利害と日本企業の利害がオーバーラップしている部分のほうがはるかに大きい。しかし、いまやそのオーバーラップ関係に微妙な「ずれ」が生じているのである。

○1980年代、「アメリカの企業はアメリカ国籍を捨てたおかげでよみがえった」といわれる。今後多くの有力日本企業が、日本の国籍のしがらみを捨てることで、グローバルに世界企業として発展することになるだろう。すなわち、日本経済全体としては、ここ当分、低迷が続くにせよ、「日本企業」としては、実力さえあれば、グローバル展開を通じてこの大変化の時代をうまく乗り切ることが可能な時代になっているのだ。

○現に、トランスプラントやリストラを通じて日本の輸出型製造業の国際競争力が急速に回復してきているとの報告もある。この場合、回復しているものはグローバルに成長した「日本企業」の競争力であり、日本国内の工場の競争力という意味では必ずしもない。日本経済は低成長が続くにせよ日本企業の成長力はけっこう強いのではないか。

○また産業空洞化とはサービス関係の新しい産業に比重がシフトして行くことを意味するし、高齢化社会を迎え巨額の日本の貯蓄超過を如何に効率的に運用するかが大きな課題となろうし、金融サービスの発展することは確実で、金融サービスが成長すると付随する情報サービスが発展することはシティーの歴史が示しているし、製造業以外の新しいソフト産業が力を付けてくるであろう。

○歴史を紐解くとこのような事例は多々見つけることが出来る。19世紀から20世紀にかけて、自由貿易と巨額の対外投資の流出でイギリス経済はいわゆる「空洞化」を経験するが、イギリス「企業」はグローバルに大きく発展した。先にもいったが1970ー80年代のアメリカ企業はグローバル展開でよみがえった。21世紀にかけて日本経済は成熟期を迎えるが、実力のある「日本企業」はグローバルに、まだまだ右肩上がりの成長を続けると思う。

○今後、「日本国」という経済単位と、グローバル化し本社部分は頭だけになったダウンサイズ化された「バーチャル企業」となった日本企業の利害関係が必ずしも一致しないことが起こる。しかしそれも、「日本国」そのものが徐々に「頭だけを持ち体を持たない」という「バーチャル国家」となるにつれて、企業のインタレストと国益が再び合致するようになるのかも知れない。

V.そのなかでの総合商社の役割

○このような客観情勢の中での総合商社の役割は、どのようなものとなるのであろうか。どうも、このような客観情勢は、総合商社のビジネス環境としては、決して悪いものではないと思う。むしろ総合商社の活動に大きな追い風が吹いているのではないか。

○まずグローバル化によって著しい世界貿易の増加がもたらされている。この数年の世界貿易量の推移をみると、世界の国内生産量を大きく上回る伸びを見せている。経済のグローバル化による当然の結果であり、この傾向は今世紀から来世紀にかけて続くものとみて間違いはないだろう。グローバル化の時代はすなわち貿易の時代なのである。貿易業者にとっては追い風が吹いているのである。

○同時に、グローバル化の時代は地球的規模での産業再編成の時代でもある。最適立地を求めて各国の製造業者は積極的にトランスプラントを実施することになる。そうすると、その部品、製品について、取引関係を新しいかたちで再構築する必要が出てくる。即ち、新しい企業間の取引関係を、一から開発し、さらに安定的なものに育成して行かねばならないというニーズが、世界のあらゆるところで発生するのである。このような安定的な企業間の取引関係の開発と育成(セットアップ)は、その情報機能とあいまって、企業間のマッチメーカーである日本の総合商社の「十八番」藝といえる機能である。総合商社の中核的機能に対して世界的にニーズが高まっているのである。

○このような情勢判断のもとに、わたしは総合商社にとって来世紀まで続く「攻めの時代」が到来したと認識している。変化の時代には「身軽さ」が強みとなる。総合商社は、このグローバル化の時代に主流となっていく、頭だけで体を持たない「バーチャル企業」にきわめて近い存在である。総合商社は、そのアセットと身軽さを生かして、グローバルに「攻める時代」に入ったと思う。

○当然のことであるが、「チャンス」は「リスク」でもある。グローバルな事業運営は、従来と比較にならないほどのリスクを伴うものになりつつある。世界の企業にとって、国際的な、政治・経済・社会関連の情報収集と分析、正確な情勢判断が、今まで以上に重要になってきている。事業の国際展開の水先案内人としての総合商社の役割はますます大きくなってきている。

以上
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1996年10月1日火曜日

蘇るラテンアメリカ経済と日本

中南米経済が好調である。悪名高かったインフレも落ちつきを見せているし、累積債務問題も一息ついた。80年代からの1人当たりGDPのマイナス成長もプラスに転じた。ずっと続いていた海外への資本流出も終わり、逆に資本が流入するようになった。中南米は、ふたたび「明日の大国」への道を歩みだしたかのようにみえる。背景には、自由化政策と、米国との経済関係の深化がある。自由貿易協定が進み、米国という巨大な市場と、資本と技術へのアクセスが、ぐっと易しくなった。また国内政策が地域協定で縛られることで、これまで外国企業を悩ませてきた朝令暮改的な変動に歯止めがかかったことも大きい。

欧米企業、さらに最近では韓国企業まで、この中南米市場の将来性に着目し、積極的な投資戦略を展開している。しかし日本企業には、まだまだ慎重な姿勢が目立つ。中南米経済の規模はGDPで1.5兆ドルで、日本を除く世界のGDPの7%をしめる。いま注目を集めている東アジアのGDPの合計は1.8兆ドルであり、中南米は東アジアと並ぶ大きな経済地域である。それにもかかわらず日本の貿易総額に占める中南米の比率はわずか4%程度であり、投資残高にしても、金融関連のパナマ、バハマ等を除けば日本の投資残高合計の5%程度にとどまる。

背景には、90年代に進んだ民営化に絡む企業の売却商談に、意思決定に時間がかかる日本企業は迅速・的確に対応できなかったことなどが云われているが、やはり企業風土のギャプは大きい。来年は日本メキシコ移住100周年であり、日本と中南米諸国とは長い交流の歴史がある。それにもかかわらず、まだまだ両者の間には、広くて深い淵がある。

ヘラルド・トリビューンを読んでいると、カラカスで、切り落とした女性の生手首を持って逃げる男を目撃する話が載っていた(IHT、9月18日)。単に指輪を盗むためである。背景には、普通の日本人の理解を超える、固定化され、さらに拡大する貧富の差と、すさまじいまでの人心の荒廃がある。

勿論、中南米の中にも安全な国もある。しかし多くの国では、時計をはめた左手は危ないから運転席の窓から外に出してはならないと教えられる。ちなみに誘拐されそうになった時の車のUターンの方法も教わる。いきなりギアをバックに入れ、ハンドルをいっぱいに切りながら、思いっきりアクセルを踏むのだ。二秒でUターンが完了する。(試す場合は広いところでお願いします)

しかし、こんな恐ろしい話も、米国通と云われる人に話すと「ニューヨークでは別に珍しい話でもなんでもない」とのこと。明らかに社会・文化の面でも、米国は、日本より中南米に近いようだ。なにせ植民地時代からの長くて抜き差しならない関係がある。

日本企業には苦手な、迅速でドライな狩猟型の商慣行も、米国の企業文化である。学生の外国語科目の人気ダントツ一番はスペイン語だ。現在の中南米経済の再生も米国との関係深化のおかげであることは先に述べた。

日本企業でも、北米を拠点にして、現地主導で中南米を攻めるところが出てきている。妥当な判断だろう。蛇の道は蛇という。

(橋本 尚幸)